写真家として 写真を語る
写真そのものの価値観を考えるときがあります。
私は、写真というものは、「芸術」というカテゴリーに入るひとつの文化であり、歴史に残るものでありたいと思います。
しかし、世の中では、「写真は芸術ではない」という認識も一般的で、「写真」は、「カメラが写すもの、カメラに写るもの」と考えられる場合が多いのです。ようするに、写真は、「誰が撮っても同じものが写る」あるいは、「そのままに写る、ただそれだけ」みたいな存在と考えられているわけです。
「写真家」としての存在は、写真そのものの価値が認められて初めて存在します。その価値が、どういうものであれば認められるのかというと、「写真の中に、写真家としての思想がしっかりあること」が必要なのです。なぜ、その写真を撮ったのか、なぜ、その写真を創ったのか、はっきりとした意志がそこには存在する・・・それが、「写真家の撮る写真」であると思います。
その価値観を考えるとき、近い種類として比較されやすいのが、動画(ムービー)と静止画としての絵画、絵の世界になります。歴史の長さでは、動画の歴史が短いのは当然ですが、いわゆる「写真」というものが存在してからの時代も、「絵」に比べれば、ほんの最近の物に過ぎないと思います。
いわゆる名画といわれる絵画は、描かれてから、何百年も経ってるのに、逆に価値観が上がってきているものもあります。それに比べ、写真の歴史はたかだか、百数十年。それより数十年遅れて、動画が現れました。見えるものを描くことは、絵でも写真でも、動画でも同じことです。ただ、写真と動画は、写すために、機械(カメラ)が必要なのに対し、絵は、絵の具と、筆だけで良いという違いがあります。さらに、写真は静止画像であるが、動画は、静止画像を連続で時間をかけて見ることのできるものという違いで考えることもできるわけです。
話はちょっと長くなりました。
ようするに、「写真とは、カメラという機械が写した静止画像」であるといえるわけですが、そこに芸術性を追求する者が「写真家」なのだと思います。
私が「写真家」 のあるべき条件は、「常にどんな写真が撮りたいのか考えている」、「どうすれば撮りたい写真が撮れるのか考えている」ただ、それだけです。それが「写真を創る」という概念上の作業になるのです。それが、証明写真でも、叙勲の写真でも、スナップ写真でも、なんでも同じです。全て、こだわりの「写真家」であり続けるために。
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